不怕不知、只怕不能思索。

私の好きな言葉に

「不怕慢、只怕站」

というものがあります。大学の時の教科書に出ていた言葉です。ご覧の通り、中国語で漢字なので意味も何となくイメージ出来てしまうワケですが、まぁ、簡単に言うと「ゆっくりであるのを恐れるな、只立ち止まることのみ恐れよ。」、もう少し詳しく言えば「進歩や上達が遅いからといって、そんなことをあれこれ思う必要はない。それよりもむしろ、そこで立ち止まってしまって、進歩する(或は上達する)こと自体を辞めてしまうことの方が恐れるべきことなのだ。」といった所かと思います。

何事も進歩が遅かったりすると、ついつい自分を卑下してしまったり、どうして自分はいつまで経ってもこんなにダメなのだろうかと思ったりしがちですが(少なくとも私はそうなのです。)、この言葉はそんな時に大きな励ましになります。

先日、何と一年ぶりに神戸に行く機会がありまして、久しぶりに研究会に参加しました。こういう研究会や学会に出席するといつも思うのですが、皆さん本当に何でも良く知っておられて、考察も鋭い。私はいつも穴があったら入りたい思いに駆られます。今となっては、私よりもずっと若い研究者の方も随分と多いのですが、私なんかよりもずっと深く勉強しておられて、しかも、それが元々優秀な方々が更に真摯に研究してらっしゃるものだから、洞察力も、分析能力もずば抜けて素晴らしいわけです。私などが此処でご一緒していていいのだろうか、と毎回本気で思います。

今回の研究会も例に漏れず、色々と勉強になることばかりでした。が、まぁ、裏を返せば、今回もまた、私が知らなかったことがたくさんあったという訳です。

『あぁ、私は今まで一体何をやってきたんだろうか...。』

打ち拉がれてしまいました。情けなくて、部屋から出て行きたいと思いました。自分がどんなに頑張っても、彼らのようには決してなれない、彼らと同じように研究したり、コメントしたりなんて出来っこない!と思いました。それは猛烈な絶望感でした。

でも、今日ふと思ったのです。

『確かに知らないよりも知ってた方が良いだろうし、知っておくべきことはやはり知っておいた方が良いのだろう。だけど、自分は○○を知らなかったと気が付いたこと、そして、人のお陰で、その知らなかった○○を知ることが出来たこと、これって、すごく幸せなことなんじゃなかろうか、と。そして、恐れるべきは、知らないことそれ自体ではなくて、知らなかったことを知った後に、自分自身でそれを発展させたり、それをもとに色々な事柄を思考することが出来ないコトなのではなかろうか?』

と。

つまり、

『不怕不知、只怕不能思索』
(知らないことを恐れるのではなく、考えることが出来ないということのみを心配しろ。)

ということ。

もちろん、これで、私が知らなさ過ぎることを正当化することは出来やしないワケですが、しかし、それでもなお、少なくとも「知らないこと」それ自体はそんなに卑下する必要もないんではないかと思うのです。だって、「知らなければ、知れば良い」だけなのですから。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とか言いますけど、本当にそうだなと、やっと思えるようになった気がします。

或は、私は自分のメンツの為に研究している訳では無いと気付いたのかもしれません。どんな研究であれ、どんな研究成果であれ、それは必ずや後進の糧になるのだと...。

例えば、今後、私の書いたものが仮に誰かにケチョンケチョンに貶されたとしても、やはり少なくとも私の研究を土台にして(もっと言えば、反面教師として、とか)新たな研究が芽吹いて行くことになるわけでしょう。とすれば、その新たな研究が生じる為には、平凡であっても、否、ダメダメであっても、私の考察もそこではやっぱり必要だったと言えるのではないでしょうか。どんなくだらない研究成果であっても、それは後世の素晴らしい研究にとっての必要条件であり続ける訳です。

『ならば、愚かでも良いではないか。知らなければ、知っているであろう人々に厚顔無恥にどんどん聞きに行けば良いではないか。そうして、聞いた後には自らそれを反芻し、検証し、それと関連する新たな資料を探しに行けば良いではないか。そうやって、このちっぽけな自分が、この限られた思考の中で精一杯に絞り出した成果を、拙く無骨であっても書き残して行けば、それで良いのではなかろうか...。』

と、まぁ、こんな風に考えた訳ですが、そうは思いながらも、今後もやっぱり自信など一生持てそうもありません。でも、かといって必要以上に卑下する必要もないということで...。(そりゃあ、もちろんモノを良く知っていて、かかなくていい恥をかかずに済む方がずっといいのだけれど(苦笑)。)
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by getty-ih | 2009-12-14 02:10